十五夜を中秋の名月というのは有名ですが意外と十三夜の事を知らない人は多いみたいです。
十三夜の月は、後の月(のちのつき)と言われ十五夜に次いで美しい月という事で、お月見をする事は日本独特の風習だそうです。
旧暦の9月13日で新暦では10月の13日、だいたい中旬位です。
他には「栗名月」「豆名月」と美味しそうな呼び名も有り昔の人は自然を身近に感じていたのでしょうね。ネーミングなど、表現力の豊かさに脱帽します。
子供の頃には十五夜はススキを飾り、団子と里芋を茹でたものをお供えし、その日は綱引きと相撲が夜に行われ子供が大手を振って夜に遊びに行ける日でした。
十三夜はその約1か月後で、栗を煮たものやみかん、月見饅頭をお供えして、栗ご飯や栗の入った炊き込みご飯を食べていたように思います。
子供の頃は季節を感じる行事と食生活が当たり前にあったのですが、今はお月見という事すら忘れがちです。
今年の十五夜の頃、
仕事終わりが遅く、深夜にベランダから月を見上げてみたのですが、ススキも団子もお供え出来ず、寂しくなってしまいました。
「お供え」という習慣は、
お月見では登って来たお月様にお供えした団子や里芋を、
日常では、仏様へお供えしたご飯やお茶や果物、お菓子を「お下がり」としていただいていました。
自然や仏様、神様を敬う気持ちは大事にしていきたいですね。
神様やご先祖様やご本尊様にお供えをするという事は、自分の存在が「生かされている」という意識に繋がることなのではないでしょうか。
香月は、実家が高野山真言宗だったためずっとお大師さん、お不動さん、大日如来さんを拝んでいました。
私の持仏(念持仏)は不動明王様です。
お大師様をお不動様を高野山真言宗の勤行次第で拝ませて貰っています。
勤行の中でいつも自問自答する部分が有ります。
日々の暮らしの中で忘れそうになりますが、それでも私の心を引き留めてくれるのが十善戒です。
弟子某甲 盡未来際(でしむこう じんみらいさい)
(十善戒)
不殺生 (ふせっしょう) むやみに生き物を殺さない
不偸盗 (ふちゅうとう) 盗みをしない
不邪淫 (ふじゃいん) 男女の道をわきまえる
不妄語 (ふもうご) 嘘をつかない
不綺語 (ふきご) 心にもない言葉を言わない
不悪口 (ふあっく) 悪口を言わない
不両舌 (ふりょうぜつ) 二枚舌を使わない
不慳貧 (ふけんどん) 欲におぼれ貪らない
不瞋恚 (ふしんに) 憎しみの心を持たない
不邪見 (ふじゃけん) よこしまな見かたをしない
私はこの教えに色んな意味を考えます。自分の言動がどうであるのか?
全部を「完璧に」クリアー出来るのだろうか?いくつかの部分は出来ないと最悪犯罪者になりますが、自分がどこまで出来てる?全く出来ていない?少し出来てる?真剣に考えてしまいます。
だから「人」なのでしょうか・・・
十善戒は当たり前で簡単な様ですが考えれば考えるだけ深いと思います。
毎日お唱えしても、反省しても、出来ない・・・出来ないから頑張ってみようと思う!
届いたと思ったその時にはまた逃げて行く、そしてずっと追い求めてしまう・・・
その繰り返しなのかもしれません。
この行動や思いの中に「悩み」に繋がる部分が潜んでいます。
目標と捉えるか、悩みと成すのか。
この言葉の違いは生きる上で大きな「本当の違い」に変わってしまいます。
南無大師遍照金剛 合掌
プロフィール
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